昭和四十九年十二月五日 朝の御理解
御理解 第二十九節 「桜の花の信心より、梅の花の信心をせよ。桜の花は早う散る。梅 の花は苦労しておるから長う散らぬ」
おかげを目当ての信心は、桜の花の様な信心だと。信心を目当ての信心を、梅の花の様な信心だと。
どんなに桜の花の様な、華やかないわば、おかげを受けても、そういう華やかなおかげが、いつまでも続くとは思われない。そうすると信心の方までくずれて行くという様な、信心ではならない。
随分おかげも頂いてきた。それぞれ自分の思う様にならなかったり、するとこれ程お参りをするのにといった様な、心が起きて来る。だからどうしても信心を信心を目当ての、信心がわからせて頂くということ。信心が身について来るということ。
昨日、いつからもお参りなさいます。中野さんという方、もう椛目の時代からお参りして見えるおじいさんである。仲々お年寄りに似合わず、教学的な方なんです。若いときにいろんな難しい勉強なさったらしいですから、お百姓しながらも仲々その理の方が先に立ついう感じ。
だから、お道の本なんかもいろいろ読んどられる。そういう例えば、本を読んだり教学的であるからというて、深い信心が、例えば頭でわかったという丈では、長う続かぬ。
昨日ここでお届けをなさるのに、毎朝、朝の御祈念に参って見える。いわばはじめて信心が、血になり肉になりして行くのを感じる。いうならば、信心の有り難さがようやくわかって来たと。ですからようやくこの寒いのに、この早くからお参りをして見えて、たまには安東さんの車に便乗される。大体は自転車で参って来るという様なお参りの仕方をなさっておられますけども、この頃はいつも早いも寒いもないお参りが、いわば楽しうなって来た。と言うのです。
それは願うという事がないという事ではありません。様々な難儀をやはり抱えておられますから、その難儀なことは、一々お取次頂いてお願いをなさるのですけれども、そういう難儀なおかげを受けなければならない。その事柄を通して、段々信心が身について来たと言うのです。
信心がわからして頂く様に段々なって来たら、もう私は大丈夫だとこう思う。信心辛抱とこう言いますね。只おかげを頂くために、辛抱するのではなくて、おかげを通して、信心がわかって行くから、辛抱が出来るというおかげでなからねばいけない。
この二十九節の、桜の花の信心より梅の花の信心ということを、まあいろいろな角度から頂きます。例えば、痛いから痒いからというて、さすったり掻いたりする信心は、桜の花の信心だと思うです。
痛いけれども痒いけれども、それをじっと辛抱して、その痛い痒いのいうなら、元を悟らしてもらうというか、そういう信心を、梅の花の信心だという風にも頂く、様々な問題があります。いくらも難儀があります。恐らくはその難儀は、一生続く、伴うことでしょう。
この世は苦の世、苦の世界とおっしゃっとる位ですから。教祖様も一生が修行じゃと仰せられるのですから。ですからその苦労を通して、修行さしてもらう。苦労を通して信心をわからせてもらう。
痛いけれどもじっと辛抱する。痒いけれどもじっと辛抱する。只辛抱するだけでなくて辛抱して行く内に本当のことがわからして貰う、本当の事がわかって来る様になるから、本当のおかげが受けられる様になる。
佐賀県の福岡県の方へ行く、何とかというお寺さんがあります。なんとか寺、そこの先代は大変な霊徳を受けられた方、それで全山を、いわゆる山を開かれて、様々なお寺を建てられて、それこそ一時大変な御比礼が立ったというところです。あちらによか建築があるというので、一ぺん幹部の方達四、五人と、お参りさせて頂くというより見学にやらせて頂いた。そのときに頂いた御理解の中に、こういう信心を桜の花の信心というのだと、いう様なことを頂いた。
それこそ一時はパッと全山、桜の花が咲き誇る様なおかげを頂かれた。ところがこれはどこまでも霊徳ですね。霊徳を専門の、まあいわば神様にお参りしているお弟子さん方でもです、やはり霊徳を受けることに専念する。いわゆる表行です。断食の行や水を被って修行する。そしてそこに神様にいろいろなお知らせを頂く。
例えていうと、女のお坊さんでしたが、私共とすれ違うときに、丁度高橋さんじゃったでしょうか、高橋さんにこの写真機が故障が起きとるから見て呉れとかいわれる。ところが高橋さん写真機がくわしいから見て上げられた。
そのお坊さんが言われるのには、今仏様からね、あそこから来るあの人間にこの写真機を、修繕してもらえと今お知らせを頂いた。だからあなたなら出来るだろうと、やっぱり当っとるわけです。 そんな事がありました。いきなりその写真機を見て下さいというてもね、それは、私に写真機を、いわれてもわからんと言わなければでけんけれども、いうならば写真機の修繕出来る人に、やっぱり仏様が教えてござる。
向こうから来るあの人間に、この写真機を頼めというわけです。高橋さんそれを見て修繕してやられた。というようなね、或る意味合いで、便利をする重宝な様ですけれども、そういう徳はです。長う続かんです。
これは金光様の教会でもそれが言えます。非常に霊徳の高かった先生のところでは、その先生が亡くなられて二代になり三代になると、ストツと御比礼が落ちてしまう、だから霊徳ではいけない。どこまでも神徳を受ける信心でなからなければ長う続かん。
神徳はあの世にも持って行け、この世にも残ると言われるのですから。まあ神徳を受けるためにはです、いわゆる信心が有り難うならねば、信心がいよいよ深く、信心のいよいよ奥処に進んで行くことを楽しみの信心にならなければ、お徳は受けられん。
御神徳というのは、いわゆる天地金乃神様の、御信用を受けるということ。三十節に、神を信ずる者は多いが神に信じられるものは少ないという事になって来るのです。おかげは受ける。確かにあらたかな神様だとおかげをわかる。おかげを受けると、それで神様を段々信じて行くという、信心ではお徳は受けられない。神様から信じられる氏子にお取立てを頂かねばいけない。神様に信じられるということは、ならどういうことにならせて頂いたらよいかということを、ここでは説くのです。
いうなら、御神徳を受けるための信心。そこに私共がです、なら天地の信用を受けるために、天地の心を心としてという様な行き方。天地の心を心とするということは、私共が仲々わかりませんのですけれども、段々み教えを頂いて行く内に、天の心とは地の心とはという風にわかって来る。
そこでです。まあいうならば、天の心が限りない美しいもの、うるわしいもの、天は与えて与えて止まないもの、しかも無条件である。そこに天のうるわしさがあるのです。
私があなたにこれをやったから、あんたはそれに応えてくれなければ、という条件つきのものではない。天の無条件に私共に、恵みに恵み続けるのです。それが天なのです。そういう美しい心ということが、目指されなければという事になる。
さあいよいよ美しくなろうと、自分自身がわかって来る様になると、まあ汚い汚い自分のお粗末な心に気がつく様になって来る。それからです初めて、謙虚な心が生まれて来る。美しい心を目指す。そして自分の心を見てみると、美しいどころか浅ましい自分に気が付く。
そこでそこを改まりもする研きもする。という生き方になっても、それこそ研けども研けども、やはり綺麗でない自分に気付くところに、私の様な者に神様が、かくもおかげを下されてという、おかげがわかり、自分というものがわかって来るところに、私の様なものにというところに、謙虚な心が生まれて来る。
その謙虚な心が、実意を生むのです。お道の信心のいわゆる、実意丁寧ということになって来るのです。その様にして限りなく美しうならせて頂こうという、信心をお互い目指さして頂くということ。
自分が段々改まって行けれる。美しうなって行けれる。その自分がですわかって来る。そして自分の心の中にもこの様な、自分で自分の心を拝みたい様な心になって来ることが楽しいのが信心なのです。それが信心がわかって行くというのです。
地の心とは、いわゆる本気での、修行の姿勢を示して行くということである。ということ。一切を、信心修行とそれを思うて受けて行くということ。そこには不平もない不足もない、いわゆる力が付いて来るのである。
大地の心というのは、いわば、受けて受けて受けぬく心。ならいう例えば、麗しい心、受けて受けて受けぬく、力というた様なものを、身につけて行くところのおかげ。ここは皆さんが、いつも聞いておられるところですから、皆さんもやはりそこのところに取り組んで、信心をしとりますという程の合楽で信心しとります程の人ならばです。あヽこんな汚い心ではいけない、ここは一つ辛抱して、ここを黙って受けなければならない。
それは受けられなくても出来なくっても。そこんところは大体合楽の方達はわかっておられるとこう思う。だからそういう、天地の心を心とする。生き方をいよいよ確固たるものにする。いうならいよいよ自分のものにして行くことのために、私は信心節度が出来て来なければいけないということになります。いうならば、キチッとした信心ですね。
私は昨夜こんなお夢を頂いた。私は高い堤防のところから、何か大水が入っている様なところ、こう見よった。ところが遙か向こうの方に、何かその御用があるのです。それがどうもよくわかりませんけど、誰か行かねばなりませんけど、いわば尻くらべしてから行かんわけです。そしたら久留米の佐田さんがトコトコ降りて行かれてから、すぅっと向こうの方の大水が入っとるところの中にザブザブ入って行かれた。
ところが洋服を着たまヽ入って行かれるもんですから、そのアップアップ溺れだしなさったんです。あヽら佐田さんが溺れござる。誰か行かにゃと言うたら誰も行かんから、私が一生懸命、あヽ先生雨が降ってましたから、濡れますがというても私は、後から傘持ってくれる人もあったけれども、その傘にも入らずに、佐田さんが溺れよんなさるところに行った。
ところがどうも、その溺れ様がですね。大体泳ぎが出来るけれども、洋服を着とるから、泳げないでおられるという感じなのです。そしてようと見ましたらですね、そげん深くないごたるです。佐田さんそけ立ってんの、そげんそこは深くないばいちゅうて立ちなさったらこの辺までのところだった。
私共子供の頃、よく泳ぎに行ってですね。もう足がつく様なところまで来とるのに、まあだ深いと思うてから、もうそれこそ溺れんばかりにあっぷあっぷした体験ががございます。けれどもね、足を底につければ溺れんでもよいものをです、溺れておるという様な状態。それからそのまま上にあがって来られたという様な、お夢を頂いた。
泳ぎも出来る。けれどもですね。ちょっとそこに例えて申しますとです、足に地をつけて見たらですね。そこに溺れるところでもなからねば、アップアップ言わんでも済むところなのに、足を地につけようとしてない。又泳ぎをするならばです、やはり真っ裸になって、飛び込まなければ、いくら泳ぎの出来るものでも、出来ない様に。私共の信心をさして貰うというか、やはり段々力が付いて参りますと、神様は必ずお試しを下さる。
ですから、日頃もう習うておるところ出来んところはないのに、慌てて出来ない。と言った様な事では惜しいです。私はそんなことだと思った。それでです、今もいうならば、稽古をしておらなければ慌てるのです。
けいこをしておらなければです。いよいよのときにそれを、おかげにして行く事は出来ない。只、佐田さんあたりの信心が、おかげだけに終始された信心ならばです。もういつも迷いをおこしたり、中絶したりする様な事になるのでしょうけれども、いうなら信心がわかって行く事を、いわば楽しみになって来られたから、一家を挙げてあれだけの信心が出来なさる。
だからあれだけの信心が出来なさるけれどもです。やはりそのことの実体というものをです、よく見極めてから取り組ましてもらわなければならん。そういうところがある様に思わしてもらった。
昨日は或る方がお参りして見えて、ここに外に時計のお供えをしたい。何と時計にもいろいろあるものなんですね。七十万円もする時計。これはまあだ九州に一台も据えてない相です。それと外にお供えしたいがお許しが頂けるだろうかというお届けでした。
昨日は丁度神愛会でしたから、お話し中でした。西脇殿でお話しがあっとりましたから、私一寸お便所に行って、あちらの便所をつかいました。そして何とはなしにお広前に行きたいと思ってから、お広前に来たらここに(左側お結界、親先生専用)座っとられますもん。二人兄弟で見えとった。ありゃあなた方は、あちらに久富先生が座っとんなさるから、あちらに行かにゃいけんとです大体。ここはおらんけん座る筈はないちゃけれども、ここに座っとる。それを私が、ここに来て座ったもんですから、だから久富先生は、西脇殿の方へ〇〇さんお届けがありますからと言うて見えて、といて言われたらしいんですけど私は、便所に立つとったから、合わなかった、わからなかった訳です。それで二人は私が来るもんと思うて、ここに座っとられんわけです。けど私は通知受けんなりにここに座ったんです。
なら神ながらに中座してここに座った事になる訳です。そこには待ち受けとるんがあった。そこに私にお伺いせねばわからない事であるときに、私も思う、その方達も思われたであろうと思う。あヽこれは神ながらに神様が受けなさるなあと思うた。
あれが、私がそういう風に思わなかったら、そげん高かもんば、わざわざそげんこれは便利ばする。それは通りを通る人が便利するしね。又お参りして来る人も便利するけれども、部屋の中には各部屋に時計があるから、わざわざそげんとをつけんでもよいと思うのですけれども、これは神様の御都合だと思います。同時に時計のお供えとは、私が大変うれしいことがあるのです。
もう合楽で時計のお供えが来るたんびに、合楽の信心が立派になって行くという事実があることなんです。いうなら今日いう天地の心を心としてという、信心だけではなくて、いわゆる日月の心になること肝要だとおっしゃる。日月ということは、実をいうならば実意丁寧神信心といわれておる。そういう正確無比というのです。
この日月の心というのは、一分一厘間違いのないいうならば信心。お互いが、おかげだけは一分一厘間違いのない働きを受けたい、おかげを受けたい。ところが信心の方は、いうならば節度が乱れとる。キチッとした信心ではない。それでキチッとしたおかげを頂くということは、無理な話である。
私はそれをお取次させて頂きましょう。どうぞおかげを頂かれる様にというところで、だからお供えをする方もです。神ながらに神様も受けて下さったという実感、私も神ながらにそれをお取次させて頂くことを、まあ昨日のそのお取次の中から感じたんです。
しかもまだ日本に何台ともない様な、九州ではまだ一台もそういう時計は、ないといわれる様な時計が、合楽のここにお供えが来るでしょう。だから合楽の信心がです、いうなら内だけでなくて、内外共にです。外に設備される時計というのは、もう内外共にという意味だと思うです。内も外もという意味だと思う。
だから神様はそれを、願い求めておられる合楽に、例えていうならば合楽示現活動という様な、尊い信心運動が起こされておる。それが今では只合楽の、内だけのものですけれども、これはもう全教に、いうなら全世界に、この運動が活発に広ごって行かなければならない。また神様の願いもそこにあるという程しの、事でございますから、いわば合楽で言われておるところの、合楽示現活動に参画するという方達がです。教内にもいうならば段々外からも認められて来るという様な、おかげ。
そしてそれを見てから、あヽ間違いはないとそのことに、確信をもって頂ける様な、働きが起こって来るではないかという風に、私は昨日、そのことについて、別にまだお供えが来てるわけじゃないですけれどもそう思うた。やはり有り難いということです。
そこで私共の信心が、おかげをわかって行くということ。勿論おかげを受けなければいけませんけれども、そのおかげを受けなければならない。内容を本気で、痛いからもうさすって下さい。痒いからさあ痒いて下さいという前にです、なぜこういう痛い痒い思いをせんならんかと、結局辛抱する。
そういう信心を、梅の花の信心と。そこから分かるところが分からしてもらう、そこからおかげも受けて来るという、行き方を梅の花の信心という風に、今日は聞いて頂きました。
只御利益あったからという、例えば霊徳の面でです。合楽に只魅力を感じておるというのであったら、昨日の御理解じゃないですけれども、大黒様の打出の小槌の方にだけ、魅力を感ずる様な信心ではならん。大黒様が下げてござる、担いでござるあの袋の中には、修行がいっばいつまっているということですから、その修行を平気で持てれる。力を頂いてはじめて、打出の小槌が打出の小槌としての、役を果たす様なおかげになって来るんだと、昨日頂きましたですね。そういう信心を身につけて行くということなんです。
桜の花の信心がいけないとはおっしゃっていない。桜の花の信心よりとおっしゃる。だから桜の花から入って、そして梅の花の信心に、移って行く、この信心の例えば、合楽の信心の、一つの理想と言ったものをです。
「梅の香りをさくらに持たせしだれ柳にさかせたい」と都々逸の文句なんです。梅の香りをさくらに持たせ、しだれ柳に咲かせたい。そんなことが出来るもんかというのじゃなくてです。合楽の場合はそれをいよいよ身につけて行こう。
何とはなしに合楽の信心は、桜の花的な、非常に賑やかな、例えば御大祭、月次祭に見る事が出来ます。実にお供え一つでも、それこそ華やかです。まあたこんな華やかなお供えを他所で見たことがない程しの華やかです。それは何とはなしに私の信心の、根性の中に桜の花的なものがあるからです。と思いますけど、だからそれだけではなしに自分に欠けておるもの、梅の花の信心が欠けておる。柳の素直な心が欠けておる。
そこで本気で神様の前に、素直にならせて貰う。いよいよ本気で、辛抱がしがたいところでも、神様にお縋りをして、信心辛抱梅の花と言われる。梅の花の様な辛抱さして頂いておる内に、何とはなしに梅の香りが漂うて来た。それが桜に移った。しかもそれがしだれ桜じゃないけれどもしだれ柳の様にです。風に逆らわない素直な心も一緒に育って行く様な、行き方と合楽の信心の、理想だという風に私は申しとります。
皆さん各自です。あヽ自分にはさくらが足りない、梅が足りない、柳が足りない。それを自分の心の中に反省してみて、足りないところを辛抱する。足らないところを桜の花じゃないですけれども、いさぎよさというものがなからなければいけません。
信心に、と同時に馬鹿程に、柳の様な素直さが求められるのでございます。だから桜の花が必ずしもいけないというのじゃない。桜の花の信心よりとこう仰る。だから桜の花の信心もいるのです。おかげも沢山頂かにゃならんのです。けれどもね例えば、それと私はいさぎよい心、桜の花の散るときのあの散り際の見事さ、そういういさぎよさと、辛抱づよさと、香りが漂う様な、信心の香りを頂ける様な、それでいて、馬鹿程に純心な、素直な心も一緒に育って行くという様な信心を、いよいよ目指して頂くところに、この三十節にあります。
神を信ずる者は多いが、神に信じられる者が少ない。いよいよそういう行き方を目指す人こそ、神様が信用して下さる。その神様の信用を御神徳というのであります。どうぞ。